プロジェクトでカイゼン [Project de Kaizen] 第122回

プロジェクトのゴールはどのように見えるのか DX時代のプロジェクト(その6)

前回は、わが国のビジネス文化について消費者の厳しい視線があることを紹介しました。これらの厳しい視線に応える努力を長年にわたって続けた結果として、わが国の製品やサービスは故障しない・させないあるいは海外に例の無い丁寧な対応が当たり前のようになっています。さらに海外メーカーでもこのようなやり方を踏まえて日本市場で成功している事例を紹介しました。わが国では製品やサービスの高いレベルが常識化して当たり前の基準になっていますから、ほんのちょっとしたことが目だってしまい不評になることもあると紹介しました。
今回は、前回からの続きです。消費者から見えるプロジェクトのゴールは、企業の製品やサービスだけに限らず、企業のとる様ざまな行動もゴールとして関係者から歓迎されることを紹介します。

【1】アメーバ経営で企業再生に貢献 
わが国の経済界で独自の経営哲学に基づき経済界に限らず広く社会全般に大きな貢献をされた稲盛和夫氏が先月逝去されました。筆者が最も印象に残っているできごとはJALの再生の中心的役割を引き受けられたことでした。経営危機にあったJALが会社更生法を申請したのは2010年1月のことでした。政府の要請で再生を引き受け、これを短期間で再生させたことは様ざまな錯綜する問題解決に当って、稲盛氏の経営哲学が関係者の努力と尽力をひとつの方向に集中させた結果だろうと感じました。

稲盛氏の経営哲学はアメーバ経営として世界的に広く知られています。基本は組織のひとりひとりの持てる力を発揮させるという、きわめてわが国らしい実践手法です。これを学ぶための経営者向けの集まりである「盛和塾」も活発な活動でよく知られた存在でした。この盛和塾は2019年末に閉塾されたそうです。今後は塾で学んだことをさらに深め実践していくことであると伝えられています。経営で最も重視すべきことは実践であるという思いが閉塾に込められています。稲盛氏の経営は通常の企業経営と思われることにも、異なる意図がありました。次に紹介します。

【2】鹿児島県に工場を建設
稲盛氏が創業された企業である京セラの国内工場(15拠点)のうち、3つ(川内、隼人、国分)は鹿児島県にあります。稲盛氏は生まれも育ちも鹿児島であり、鹿児島大学の工学部を卒業されています。つまり、出身地の社会のために貢献されているのです。筆者も鹿児島県の出身ですが、友人たちの子弟の中にも京セラの鹿児島県内の工場に勤務している方があります。世界的にも著名な企業が地方に進出したことに皆が喜び大歓迎しています。

拠点があるとビジネス訪問のお客さも増えます。京セラ国分工場の近くには京セラが経営するビジネスホテルがあります。鹿児島空港から鹿児島市内までの連絡バスでは「京セラホテル前」というバス停留所があります。筆者の体験ですが、そこから乗降する外国人ビジネスマンのグループを見かけました。世界的企業の進出は、従来には無かった海外の異文化の風を吹き込んでいるように感じました。

東京一極集中の弊害が指摘されてからも集中は加速するばかりです。これは当然のことで、集中が進めば進むほど地方ではそのために過疎化が進みます。地方自治体の努力だけでは、このような大規模な社会現象に歯止めをかけることには限界があります。わが国の政府もこれについて全く考えたことが無いわけではありませんでした。

【3】田園都市構想
田園都市とは豊かな自然に恵まれた都市を指していますが、わが国では阪急電鉄の創業者である小林一三が沿線でおこなった都市開発がその一例と思われます。宝塚歌劇団の創設もセットになっていますから、世界的にも珍しい例ではないでしょうか。

本格的な田園都市構想としては大平正芳元首相(在任期間 1978~1980年)が提唱された地方創生を主眼に置いたものが元祖と位置づける論説がありました。以下、『田園都市は大平元首相に学べ デジタル偏重は本末転倒』(2021.11.17 JA com)の記事から、筆者がとくに印象に残った「大平元首相に学べ」の一節を抜粋して紹介します。

「地方の時代」先取り文人宰相構想
大平元首相は都市と農村の関係を対立ではなく一体でとらえた。中心の都市は就業機会を与え、周辺の農村はその都市を緑で囲み生鮮食品を提供する。人口にして20万~30万人程度。こういった共存型中規模都市を全国に作っていこうとした。単なる「田園都市」ではなくそこに〈国家〉を付けたのは、今後の新しい国家戦略だったからだ・・


【4】地方の工業団地に進出した中小企業A社
地方自治体が工業団地を造成する目的は、田園都市構想と通じるところが多いのではと感じます。筆者がおつき合いしている中小企業A社はまさにその好例です。

A社社長(創業者)は都心に所在する拠点を地方におくことを考えていました。都心では工場を拡張するにも難があり、工場従業員の確保も早晩行き詰るだろうとの思いがありました。移転先検討の中で首都圏の近県に格好の工業団地がありました。団地開業のトップ入居企業として、そこに開発設計部門を含む生産工場を稼動開始しました。都心のオフィスには新商品開発、営業や管理グループが残ることになりました。当時から35年以上が経過し、A社工場は地元の産業として確固とした地位を築いています。筆者は工場訪問時に最寄り駅から工場までタクシーを使います。タクシー会社のオーナーが運転するときの車内での会話を紹介します。「団地開業以来、最近は廃業する企業もある。その中で経営者も企業名も変わらずに着実な経営をしているのはA社だけだ。他社もA社のように頑張ってもらいたい」、タクシー会社は地方経済変動の影響をじかに受けることがよくわかります。A社のビジネスは B to B ですから地元住民が愛用することはできませんが、企業の永続的な存在自体が歓迎されています。企業のゴールはその製品やサービスだけではない、このことの一例と言えます。