脱力・カイゼントーク1では私がカイゼンという分野に身を置くようになった経緯をお話ししました。第2回の今回は、カイゼンのコンサルタントになった時のことをお話ししたいと思います。
私は日産自動車では、セールス出向や留学の期間を除きずっとカイゼンを担当し、現場での仕事が大好きでした。しかし管理職になり徐々に管理的な仕事が増え、現場カイゼンにもっと専念できる方法はないものかと考えるようになりました。
そんな時、知人の紹介で改善コンサルタンツ株式会社の社長の御沓(みくつ)佳美氏と知り合いました。彼らはまさに私が望んでいた現場カイゼンをしているということで意気投合し、1990年12月に18年務めた日産自動車を円満退職し、改善コンサルタンツ株式会社に転職しました。最初の1ヶ月の仕事は御沓を含む3人の先輩コンサルタントにカバン持ちとして同行してコンサルティングの仕事を覚えることでした。
翌年1991年1月初旬に私は社長の御沓と一緒に、彼の指導先であった音響機器メーカ―A社に行きました。カバン持ちの初日です。作業服に着替えながら、御沓の指導が始まったら自分のアイデアと比較してみようと考えておりました。そして製造現場に入ったのですが、その瞬間に私は大きなショックを受けました。というのは、これまで私が見ていたどの現場より5Sも作業訓練もされており、私にはカイゼンすべき点が1つも見付けられませんでした。ところが御沓は現場を見るや否や、「前回の宿題ができていないなぁ」などと次々と問題点を指摘していくのです。その瞬間、脇の下から汗がドッと流れ落ちました。「私とはレベルが違う!こんなことはとてもできない」、と思いました。こんな大切なことを、ナゼ前もってしっかり調べてから決断しなかったのだろうと後悔しました。御沓の言うことをメモしながら、「困った、これからどうしよう...」という考えが頭の中でぐるぐると回っていました。
仕事が終わり2人で駅に向かうタクシーの中で、御沓から「来月から柿さんがこの会社の担当だから」と言われました。私はとても無理だと思いましたが、もし断ればクビになることは間違いなかったので「分かりました、頑張ります」と答えました。
大きな力不足を知って焦った私は翌日から猛勉強を始めました。毎日3人の先輩コンサルタントのうちの誰かのお供をするのですが、大学ノートに一言一句漏らさず書き取りました。暗記が苦手の私でしたが、緊張して集中力が研ぎ澄まされていたので、夜にその日のカイゼンを思い直すとすべて鮮明に頭に残っていました!以前からトヨタ生産方式の分析で有名な新郷重夫先生の厚いカイゼンの本を何冊も線を引きながら読んでいたのですが、実はほとんど理解できていませんでした。しかし改めて読み直すと何と今回は理解できるのです!こんな経験は初めてでした。人間本当に困るとこれまで経験したことのない力を発揮できるものだと驚きました。この間、御沓からは「何か分からないことがあったら聞いてね」と声をかけられましたが、厳しく指示されることはありませんでした。
そうこうしているうちに1ヶ月が経ち、今度は1人でA社に行きました。コンサルタントとしてのデビュー戦です。この1か月間で先輩のセリフを覚え、新郷先生の本で学んだことを使ってひたすらしゃべり続けました。予定した時間になり指導を終えて、社長室で社長とお話しした時に、社長が「コンサルタントが変わるというので心配したが、良い先生で安心しました」と言ってくださいました。その後タクシーで駅まで移動したのですが、運転手さんに行先を告げてすぐに私は気を失いました。それほど緊張していたのですが、何とかコンサルタントとしてデビューすることができました。
わずか1ヶ月で私がこれだけ成長できたのはナゼか?私自身の努力もありますが、何より大きいのは社長の御沓が私を信頼して任せてくれたことであるのは間違いありません。御沓は私が心の中でオタオタしていたことを見抜いていたと思います。しかし敢えて細かいことを言わず、その上で私が逃げないで先輩の技術を吸収し、一人前になる努力をしていたことを黙って見守っていたのでしょう。「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」という言葉がありますが、まさにこのことです。この方法以外では私は目指すゴールに到達できなかったと思います。
これからの大きな変化の時代に生き残り勝ち進むために必要なのは人材です。教育というとついつい教えることに力が入りがちですが、それだけでは不十分だと思います。それ以外にも、相手を信頼して任せること。もし何か分からないことがあったら遠慮しないで質問できるような環境を与えること。そして自主的にかつ徹底的に考えさせるように導くことが必要です。このようにして教わる側の覚悟を引き出すことも大切ですね。相手を信頼するには勇気がいりますが、このようなアプローチも考えていきましょう!