連載の前回では、訪日の外国人観光客からの感想は「自分の国にいるよりもほっとする」ことがあると書きました。そして、同時に日本人もほっとすることは何だろうかと続けました。筆者が製造企業の生産工場に勤務していた時の体験を紹介しました。それは超モダンで最新鋭設備の導入であっても、習慣としての神事は欠かせないということでした。この神事の起源は、少なくとも骨格に相当するところはたぶん古くからわが国に定着しているものだったのでしょう。それを当事者たちは誰一人として古臭いとか意味があるのかという批判めいた意見はありませんでした。当時の筆者は駆け出しの新人だったこともあり、ただひたすらにその雰囲気を体験するだけで精一杯だったように記憶しています。今回もこの続きです。このような雰囲気のもたらすものやその意味について述べることにします。
生産現場での筆者の体験
筆者が製造企業の生産現場に勤務していた当時、担当している鋳造工場の業務で金属を溶解させる大型の電気炉を購入し稼働させたことを紹介しました。最新鋭の設備であっても、その導入・据え付け・稼働にあたって神事(火入れ式)は欠かせない必須のことでした。とはいえ時代の変化による影響はあるのだろうという感じはします。例えばわが国の観光旅行の訪問先名所には必ずと言ってよいほど神社やお寺があります。ネットで調べるとわが国の神社は8.1万軒、お寺は7.7万軒だそうです(2023年6月時点)。そこを訪れると製造企業に限らずビジネス全般の領域での神事や仏事が盛んなことが理解できます。企業なり個人なりの名前で祈願したことが固有名詞付きで確認できます。また、神社などの改築や増築などにあたって寄付・寄進することは、個人に限らず企業組織でもごく普通のことになっています。
ビルの屋上にある神社
日本橋の老舗デパートの屋上にある神社は有名ですが、デパートに限らずビル建設のときなどに建設予定の敷地内に何らかの神社があれば、ビル完成時に屋上に移設することがほぼ常識になっています。もとのサイズよりも小型化されることもあるようですが、ビル建設にあたってそれらを不要なものとして撤去廃却することは、わが国ではあり得ないことです。ほとんどの場合、移設や移転というやり方が適用されます。神社などの跡地の再開発はこういう手順をしっかり守れば計画実行の障害にはなりません。これはじつに優れた慣習だなと思わずにはいられません。こういう慣習が無かったら、時代の変化に合わせた社会インフラの改良、更新や整備などはきわめて難しいことになるでしょう。
また、邪魔になるからと何でも撤去廃却するような考え方では歴史や文化を継承し永続させることはできません。継承し永続する結果として、近代的な都市の中に古来の神社やお寺が調和しながら見事に共存することができます。このような共存は何もわが国だけのことではありません。世界の有名な観光都市では、古来の遺跡や建築物が丁寧に保存されている事例はいくらでもあります。しかし、最近の訪日外国人観光客の大幅な増加をみるとわが国の共存のレベルが他国に比較してケタ違いに高いのかなと感じます。
神社とお寺が平和的に共存する日本
わが国のこのような共存は、ほとんどの日本人の宗教が一神教ではないことが大きな要因であると考えられます。わが国で大多数の国民に普及している宗教は神道と仏教です。学校で教わったように仏教伝来は聖徳太子の時代でした。当時の「伝来」の内容は宗教に限らず政治や経済に関わる先端の知識や技術が含まれていました。異なる宗教を受け入れることによる摩擦や混乱よりも、ずっと魅力的なことが多いと当時の為政者たちは考えたのでしょう。それで仏教を受け入れることを決断した。仏教「伝来」と聞けば何か受け身的な響きがありますが、当時は明確な意思のもとに積極的に導入したのです。そして、わが国社会に大きな変化、進歩と発展をもたらしました。伝来は大成功したのです。
わが国での宗教由来の行事
年末年始だと、大晦日には除夜の鐘が定着しています。わざわざ鐘をつきに出かける人も少なくありません。翌日は新年初日になりますが、初詣でがあります。鐘つきはお寺で、初詣では神社ですから、仏教と神道は当たり前の行事として定着しています。この他、年末にはクリスマスもありますが、これはビジネスにとっては定番のシーズンです。クリスマスはわが国に限らず世界の各国共通の行事になっています。これも宗教由来の行事ですが、今やそれよりもビジネスにとって欠かせないものになっています。
興味深いのは結婚式ですね。教会での挙式はわが国ではしっかり当たり前のことになりました。当事者がキリスト教徒でなくても教会は問題なく受け入れてくれます。これをきっかけにしてキリスト教徒になるという期待は教会には全く無いようです。出席者も何の疑問もなく、出席して讃美歌を歌ったりします。それなりの雰囲気はあるが、参加者側に宗教色は感じられないという風景が定着しているようです。
私は無宗教と言っても驚かれないわが国
大晦日、新年、クリスマス、結婚式などの状況からわが国は多くの宗教由来の行事があります。筆者としては仏教と神道が基本になっていると考えますが、時に私は無宗教ですという人もあります。これについて山本七平(評論家 1921~1991年)が何かの著書で書いていたことを思い出します。概要は次のようだったと記憶しています。
・・国際線の飛行機内で隣席になったご婦人(キリスト教徒)との会話から。日本人男性曰く「私には特定の宗教は無い」・・日本人だったら言いそうな言葉ですね。一般的に「私は仏教徒です」という発言の機会も無さそうです。筆者は「私の実家は浄土真宗のお寺さんの檀家です」とは言いますが、私は仏教徒ですと言う機会はこれまでありませんでした。相手が日本人ならこれで了解してもらえます。さて、上記の日本人男性は「特定の宗教は無い」と言ったので、これを聞いたご婦人は「それでは、あなたは何によって子供を育てるのですか?」との質問があったそうです。つまり、宗教と言う精神的な支柱を持ち合わせない人間がいることが信じられなかったというわけです。日本人男性はさらに応答を続けたが「会話は嚙み合わなかった・・」と著者は書いていました。
これを読んで、筆者は外国人から宗教について質問されたら「私は仏教徒です」とシンプルに応えようと思っています。現在までそういう機会はまだありませんが、この応答ならその後のコミュニケーションに致命的なマイナスは無いだろうと考えています。
次回に続きます。