虫の眼・魚の眼・鳥の眼 第4回:ないなら自ら進化して作り出す(その1)

●貝原益軒は藩内を歩き回って本草(薬)の本を作った

江戸時代には植物、特に薬草に関する収集と分類が盛んになり、幕府も協力や振興したとされています。薬の本(もと)になる本として、本草(ほんぞう)学が発達したのはうなずけます。それをまとめた有名な人物が、「養生訓」を書いた当時日本史上最高の生物学者であり、農学者の貝原益軒です。彼はそれだけでなく、薬草を採取したりするため、現地現物で観察し研究し、「大和本草」をまとめあげました。薬草を調べるに当たり周囲の野山や河川さらに海岸まで足しげく歩き、色々なものを自分自身の五感を働かせて、実際に目で見て、手で触り、時には口にして、分類をしたようです。本草だけではなく、なんと鉱物、動物までも手を広げ、本偏だけでも16巻もあります。
 
その中で13巻は、魚が取り上げられ、フナ、コイなどの「河魚」、タイ、ブリに加えクジラ、イカ、タコも「海魚」の2つに分類されています。食べる側からすると、当時はこの分類は正しいかったようです。14巻は、虫類3分類です。セミやトンボとともにヤモリやヘビも「陸虫」でした。なんとエビ、シャコ、ホヤはアメンボと一緒の「水虫(足に発生するカビでない!)」に分類されています。この分類に何と貝類も入れています。サザエとタニシ、カタツムリも同じ貝類と区分したようです。15巻は、鳥であり5つンぽ分類があります。カモ、ハクチョウなど「水鳥」、ワシ、フクロウなど「山鳥」、スズメ、ツバメなどの「小鳥」、ニワトリなどの「家禽(かきん)」、さらにカラスは「雑禽」という分類で、オウム、インコなどは「異邦禽」となります。現代では義務教育から既に習うので、このような間違いはないでしょう。でも分類をし始めた時のカテゴリーがまったくなかったので、どのように分類するのは大変だったと想像されます。
 
藩からの依頼でどの植物が食べることができ、薬草にできるかは重要な藩の経済問題だったことが分かります。多くのものを見て判断していくから正しい分類ができるのであって、無勉強や無関心であると何も分類もできません。彼は本当に好奇心旺盛で、しかも現地現物を基本とする実証の人だったようです。当時の印刷技術は版画か写本くらいしかなく大量に印刷することは難しく、本にすることはそれ自体も難しいものでした。ないからこそ身近ら先頭になって、藩内をくまなく歩き作り上げたのは素晴らしい!の一言です。ないからこそやりがいもあります。どの企業も革新は、たった一人から始めています。やりあげるという強い意志が、見えない力を天からも引き寄せるのでしょう。

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