前回の連載第198回では、わが国の戦国時代に地球の裏側のヨーロッパからやってきた宣教師たちと信長の交流について述べました。全く未知の国からもたらされた文化、技術や手法を理解し、当時のわが国はいち早く鉄砲などの国産化を成し遂げました。このような実態や実績を見せつけられた当時の覇権国家であるスペインやポルトガルはわが国を武力で制圧することは不可能なことをすぐに理解しました。それでこれらの両国は手を引くことになり、最終的には経済面での交流に絞ることにしたオランダだけが貿易の相手国として残りました。当時のわが国では、このような外来技術の応用と発展が急速に進行し戦乱を終息させ国内統一に向かうことになりました。今回はこのような歴史の潮流で明らかになったわが国の特長が現代の企業活動にも反映されていること、そしてそこには伝統的な宗教観があることを述べていきます。
企業の情報宣伝活動
マスコミが発達した現代社会では企業からのメッセージはさまざまなやり方が工夫されています。とくに競争の激しい業界では自社ブランドをいかにアピールするかが普及のカギになります。そのためのひとつとして人気のあるスポーツイベントが活用されます。例えば駅伝などのロードレースでは有力選手を起用した企業広告は絶大な威力を発揮します。もともと大企業によるスポーツ業界への参入はわが国では伝統的に活発でした。企業としてスポーツ選手を自社の社員として囲い込むことも定着しています。大企業でなくてもこのようなかたちでの参入は企業活動としてごく自然なこととして受けとめられています。現代社会のような活発なマスコミ活動が無かった戦国時代に、意図してこのような情報・宣伝活動に取り組んだひとりは信長でした。このような歴史上の出来事から現代にも通じる観点などを取り上げます。
信長の天下布武
天下布武のようなキャッチフレーズを打ち出したのは信長の独創性をよく表しています。天下布武という四文字のハンコまでつくって手紙などにも押していたと伝えられています。そして、それをまず自軍内部に浸透させました。武将たちだけでなくその部下たちにもその意味がわかってやる気が出たことでしょう。次には自軍営のみならず、敵の軍団や中立的な群雄にも影響力を発揮することになります。「オレが天下をとる」であれば、ある程度以上の武将ならば誰でも言いそうな感じがします。ところが「天下に武を布く」となると、段違いの説得力があります。情報宣伝活動において戦術レベルから一気に戦略レベルへ飛躍した感があります。この時点で「勝負あった」ということだったのだろうと感じます。
戦乱時代の終息の後に
わが国の戦乱の時代を最終的に平定し長期の平和をもたらしたのは、信長や秀吉を経て家康の江戸時代でした。そしてそれは明治維新まで約260年間継続しわが国独自の文化を生み出すことになりました。いわゆる鎖国と言われる時代ですが、家康は海外との交易には積極的でした。ところが交易に伴い宣教師たちが活発に布教活動を行うので、まず秀吉の時代にバテレン(宣教師)追放令を発布します (1587年)。ところが、ほとんど効果が無かったと伝えられています。なぜこの法令は効果がなかったのでしょうか。逆に言うと、このような追放令にも関わらず宣教師によるキリスト教徒が拡大し続けたことには、宣教師サイドの情報宣伝活動が禁止の法令を無効にするパワーがあったからと思われます。
宣教師サイドの戦略と戦術
彼らとしては中米、南米やアジアなどでのまず軍事的に制圧し次に布教するというやり方が日本には通じないことはわかっていました。信長を初めとしてわが国のどの諸侯であれ、軍事的に対抗できなかったからです。また、信長はキリスト教について仏教の諸派がひとつ増えたくらいで何を恐れる必要があるのかという姿勢でしたから、布教は問題無く許可していました。他の諸侯たちも同じでした。とくに鉄砲や火薬の原料などの供給は戦国時代の諸侯にとっては大きな魅力でしたから、その交換条件として布教活動を容認したようです。
ところがこのような関係はほどなく破綻します。キリシタン大名の中には布教の容認にとどまらず、教会に自らの領土を寄進する領主も出てきました。家康もあるとき自らの周囲にいる側近や奥女中のほとんどがキリスト教の信者だと知って愕然としたとのことです。これ以降、もはや容認できる宗教ではないとしてキリスト教の一切の活動を禁止することになります。先に述べたように、家康は海外との交易拡大を期待していました。しかしそのための代償として国家の枠組みが激変することはあり得ないことでした。キリスト教の全面的な禁止によって国内での騒乱を終息させ、その後の長期にわたる徳川の平和を実現しました。
国家宗教としての神道
明治政府は国家の宗教として神道を選択しました。仏教は徳川幕府がしっかり取り込んでいましたから、神道以外の選択肢は無かったのではないでしょうか。明治政府の大号令でお寺を壊して神社を盛り立てる全国的な動きが起こりました。いわゆる廃仏毀釈と言われる政策でした。このため寺院に保護保管されていた貴重な歴史的美術品や工芸品なども破壊されたと言われています。仏教界にとっては未曽有の災禍が起こったのです。
これに関連して筆者は高校時代の学校行事を思い出します。鹿児島市には「妙円寺詣り」というイベントがあります。その一環として学校からこのお寺まで片道20KMの行進です。このお寺は薩摩藩の島津義弘公の菩提寺でしたが、明治政府の廃仏毀釈で存続ができないので当時は徳重神社という神社に転換(偽装)したのだそうです。もちろん現在はお寺として地元に定着しています。
法令より優先するもの
このように政府による宗教政策は民間の現実を踏まえない限り意図したようにはいかないようです。先に徳川幕府によるキリスト教の禁止を述べましたが、長崎県のある集落では隠れキリシタンは取り締まりを逃れて明治までずっと存続したとテレビ番組で解説していました。これを観て筆者の感じたことです。取り締まる側のお役人にしても普通に生活している人たちを宗教が違うだけの理由で摘発することはできなかったのでしょう。役人としては法令を厳格に守らせることよりも集落での従来からの信教を尊重せざるを得なかったのかもしれません。このあたりについて、筆者は我われ日本人の特長を感じます。
(次回に続きます)