連載の前回、第197回では、筆者が勤務していた企業の現地生産工場のあるバルセロナに出張したときの失敗談などを書きました。初めての海外出張先のデパートで、祖父の愛用していたコードバン(革製品)を発見したので有頂天になってのカン違いによる失敗でした。製品についている原産地タグをきちんと確認すればスペイン製ではないことがすぐにわかるはずでした。製品としては価格に見合ったそれなりのものだったので大損害ではありませんでしたが、自らの不注意にがっかりしました。
個人的なことはさておき、スペインやポルトガルは新大陸発見当時において世界を制覇する大国だった時代でした。そういう勢力ですら、日本へは軍事的には全く手が出せなかったのです。それで彼らは軍事的ではなく、まずはキリスト教を布教することから始めました。当時の布教活動はスペインとポルトガルによる世界侵略戦争と全面的に同期していましたが、こういうソフトな作戦のほうに見込みがあると考えたのでしょう。そのような作戦を当時のわが国の為政者たちはどう対処したのでしょうか。今回もこの続きです。なお、本稿でも前回に続き「戦国日本と大航海時代(平川 新著)」などを参考にしています。
信長を訪問した宣教師たち
開明的な信長(1534~1582年)は、地球の裏側からやってきたイエズス会の宣教師たちによる情報をきちんと受け止め積極的かつ選択的に吸収していました。彼らからのプレゼントである地球儀を見て信長は地球が丸いことを即座に認識したそうです。彼の優れた論理的思考の一端を示すものでしょう。同時に彼らがやってきた海路を示されると、お前たちは盗賊か、そうでなければお前たちの説く教えに偉大なものがあるかいずれかに違いないと言ったそうです。彼らの活動にいかがわしさと神秘さの双方を感じていたのだろうとこの著者は書いています。このころは宣教師たちがわが国でも活発な動きをしていました。あの天正遣欧少年使節のローマ教皇派遣(1582年、帰国1590年)もこの時期ですね。
信長の率直な質問
航海に自らの命をかける宣教師たちに、信長はそこまでしてやってくる目的は何かを問いかけます。確かにこの航海に限らず当時の船舶は動力を持たない風が頼りの帆船でした。と言っても新大陸に到達したコロンブス当時のカラック型帆船からは100年経っていますからかなり進化していたはずです。より安全な航路もそれなりに開発されていたのでしょう。しかし、きわめてリスクの高い航海であることには変わりありませんでした。信長としては一攫千金をもたらすビジネスならばこのような冒険も理解できるが、布教の目的のみでハイリスクを覚悟してやってくる宣教師たちの真意を測りかねていたのでしょう。
信長の自信の源泉
しかし、信長には自らの軍事的な背景に自信を持っていました。彼の側近たちが「キリスト教は布教したあとが怖い」と危惧を述べますが、信長は「仏教の宗派がいま8つあるが、その宗派がひとつ増えたくらいの影響は何とも無い」と笑い飛ばしたそうです。信長の次の秀吉の時代にはバテレン追放令(1587年)で宣教師たちは国外追放になります。この時期になると日本でのキリスト教の信者数は20万人ほどにもなったそうですから、さすがに無視できなくなったのでしょう。それでもキリスト教そのものの禁教令は徳川政権になってからでした。信長としては、当時の時代背景から秀吉ほどの危機感をもつことは無かったようです。
彼らを威圧した信長
信長は自らの保有する軍事力を誇示するために京都で大軍事パレード(京都御馬揃え)を挙行します(1581年4月)。これは京都の平和回復と信長の天下掌握を強くアピールする狙いだったと言われています。もちろん、まだ敵対関係にあった安芸の毛利輝元(1553~1625年)や甲斐の武田信玄(1521~73年)への強い牽制も目的のひとつだったと思われます。天皇や公卿はもちろん一般市民の他に宣教師たちも招かれ見物したそうです。信長は宣教師からもらった金ぴかの大椅子までパレードで展示したとのことですから、この政権の絶頂期を飾る空前のビッグイベントだったのでしょう。
ところで軍事パレードと言えば、現在でも各国で恒例行事となっています。その目的について筆者が感じることです。現在の世界では民主主義とは真逆の独裁国家が少なからず存在します。それらの国家の目的として軍事パレードは対外的な示威の他に自国民に対して「これだけ圧倒的な軍事力がある。この政権に歯向うことはできない」との自国民に向けての脅しであり反抗や反乱の防止に主眼があるようです。
信長のメッセージ
天下布武を宣言した信長の場合、国内統一はまだ完結しておらずその途上にありました。「天下に武を布く」について筆者は単なる武力統一と理解していました。少し調べたら、この「武」は「七つの徳」を意味するのだそうです。つまり、天下布武は単に武力を行使するだけでなく、経済を活性化し、民衆を豊かにすることを通じて天下を統一するというきわめて先進的なメッセージでした。これを自軍や自らの勢力範囲だけでなく、上述したような東西の軍事勢力にも強く発信したわけです。
開催中の大阪関西万博
現代社会での国際的なビッグイベントとしてスポーツではオリンピック、ビジネスでは国際博覧会(万博)などがあります。万博の初回は1851年ロンドンで開催されたそうです。第2回はパリ万博でこのときは徳川幕府のほか薩摩藩と佐賀藩がそれぞれ独自に出品を行ったそうです。現在開催中の大阪関西万博を含め、わが国ではこれまでも繰り返し開催されています。とくに大阪についてはちょうど55年前の1970年にも大阪千里丘の丘陵で開催されました。
信長の京都御馬揃えから約440年が経過した現在、万博は軍事パレードなどではなく世界中から人々が集まり、産業や技術の進歩が目に見えるかたちで展示されています。そして地球規模の課題に取り組むための場として位置づけられています。信長がタイムスリップしてこの万博会場に来たら天下布武の代わりにどのような感想をもつのでしょうか。
(次回に続きます)