連載の前回、第196回では、スペインコルドバの大聖堂にあるコロンブスのお墓での感想を述べました。彼の棺を担いでいるのはイベリア半島に当時存在した4つの王国(レオン、アラゴン、カスティージャ、ナバラ)の王さまたちでした。彼は新大陸の発見者として、亡くなってからそれに相応しい丁重な扱いを受けていたということです。翻って、新大陸発見の報告をしたときは必ずしも称賛のみではなかったようです。つまり、新大陸での先住民に対する悪行が既に本国には伝わっていました。イサベル女王には発見の報告だけでなく、そのことについて彼は苦しい釈明もせざるを得ない状況だったようです・・。こう言うとまるで筆者がその場で観てきたような書き方ですね。筆者が観たのはスペイン国営テレビ製作の歴史時代劇、「イサベル~波乱のスペイン女王」 (日本語字幕付きで放映)でしたが、この場面はこのドラマの見どころのひとつでした。筆者世代の学校教育で、コロンブスは新大陸発見のリーダーとして栄光ある存在として教わりました。その後、船団チームの悪行も伝えられるようになりました。歴史の負の側面も隠せなくなったということでしょうか。今回もこのようなスペインの話題の続きです。
スペイン出張で買ったもの
前回紹介したように祖父が使っていたスペイン製の革製品はブックカバーでした。それらの革製品などはコードバンと総称されていたことを書きました。筆者が初めてバルセロナに訪れたのは勤務していた企業の現地工場へ出張したときでした。祖父の想い出のあるコードバンということで皮製の書類カバンを買いました。デパートの売り場では様ざまなコードバンが陳列されていました。自分で日常的に使うものとして、お値段も手ごろでサイズや質感もそれなりのものを選ぶことができました。何よりもそれほどかさばらずに壊れる心配も無く、旅行のおみやげとしては良い選択だったと満足して帰国することができました。
ところが帰宅してこの書類カバンを使っているうちに初めて気づいたことがありました。カバンの奥底に産地タグがひっそりと付いていました。そこには Made in Korea と書いてありました。祖父が愛用していたコードバンではなかったのです。うかつにも帰国して自宅で初めてこのことを知ることになりました。製品としてはそれなりのものだったのですが、原産地がコードバンとは異なるものだったのでがっかりしました。家族向けのお土産はお菓子にしました。これらはほとんどが現地製(国産品)だったので安心できました。ところが、味付けが甘過ぎる(ただ甘いだけ)と辛口のコメントがありました。言われてみればその通りでした。おみやげの選択は難しいものだとつくづく感じることになりました。
スペインが世界を制覇した時代
イベリア半島にはスペインとポルトガルがあります。半島の面積は約58万平方KMで日本の面積の約1.5倍になります。「15世紀以来スペインとポルトガルはキリスト教布教と一体化した世界征服事業を展開した」、これは『戦国日本と大航海時代(平川 新著)』のカバーの一節に書いてありました。当時はまさにこれらの両国が世界を制覇する勢いでした。それはこの二つの国で世界を二分割する協定を結ぶほどの勢いでした。わが国日本はちょうど分割線上に位置していたので、どちらの国が制覇してもよいだろうとこの両国ともにわが国にやってきました。1542年、ポルトガル人が種子島(大隅国:現在の鹿児島県)に漂着して鉄砲を伝えたことは、わが国の学校教育でも必ず出てくる有名な史実です。
種子島と言えば
わが国の戦国時代にこれは鉄砲(火縄銃)の別称でした。鉄砲伝来からあっと言う間にそれを国産化しました。1600年の関ヶ原の戦いでは一説によると両軍合わせて4~5万丁もの国産の鉄砲が使われたそうです。この数量は当時の世界最大数だったと言われています。このように鉄砲の伝来から短期間で試作し本格的な実用化に至る歴史的な出来事がありました。まさにわが国古来の優れたものづくりの証明と言えるでしょう。これについては本連載で、また別の機会に述べることにします。
幼少期の筆者としては種子島と聞けば、まずはバナナを連想しました。そのころのバナナはかなり高価な果物でした。筆者の出身地は大隅半島(鹿児島県)で、ここは相当に暑い気候です。とはいえ、バナナが栽培できるほどの暑熱地ではありませんでした。その鹿児島県において南方にある種子島では小ぶりのバナナが栽培されていました。と言ってもそれは八百屋に出回るほど一般的な農産物ではなかったようです。実家のすぐ隣に同島出身の方が居住されていて親しいお付き合いがありました。その方が里帰りされるたびにお土産として特産のバナナがありました。
脱線しましたが、これらは筆者の個人的な想い出です。鉄砲に関連する世界史の話題に戻ります。15世紀末ごろスペインとポルトガルが破竹の勢いで世界を制覇しようと競合していたとき、両国が無駄な競合で争わないようにと仲裁者が現れます。
デマルカシオン 世界分割
世界をこれらの二国で分割しようという計画で、当時のローマ教皇の仲立ちで両国の分担範囲を1493年に教皇子午線として取り決めたのがトルデシリャス条約でした。この条約については、スペインやポルトガルでは現在も顕彰されているそうです。つまり、自国の過去の侵略の歴史を功績として認識しているそうです。もちろん、その逆の認識もあるようですが・・。現在のローマカトリック教会の教皇については、世界平和のための活動が報道されています。その活動の対象は必ずしもカトリック教徒に限らないようですが、当時の教会の布教活動はスペインとポルトガルによる世界侵略戦争と全面的に同期していました。
わが国には通じなかったソフト作戦
もっとも、日本は彼らの侵略戦争の対象にはなりえませんでした。15世紀 末から 16世紀 末の日本は戦国時代で世界的な軍事大国でした。これに対抗するためにスペインやポルトガルが地球の裏側から大船団で軍隊を日本に派遣する、つまり軍事的につけいることは全く不可能なことでした。そこで、スペインやポルトガルは日本でまずはキリスト教の布教から取り組むことにして宣教師を送り込むことにしました。これに対して信長は軍事的に圧倒的な自信があったのでしょう、宣教師の自由な布教活動を許可しました。とはいえ彼らのこのような「ソフト作戦」の手の内は信長の次世代となる秀吉や家康などにも、とっくにお見通しだったようです。
(次回に続きます)