プロジェクトでカイゼン [Project de Kaizen] 第185回

プロジェクトチームの休憩室(33)

連載の前回では、筆者が勤務していた工場の社内講演会でのハプニングを紹介しました。それは講演半ばでの講師による突然の怒声でした。聴講していた一人が居眠りをしていたのです。「居眠りは出ていけ」という講師の怒声は、今思い出してもせっかくの講演会の意義を壊すほどの不快な印象しか残っていません。

筆者は現在の仕事でもたびたび講演会や講習会の講師を務めています。なかなか居眠りゼロは(その予備軍も含めて)難しいことです。大学3年生向けの講師を5年間務めましたが、大教室での100名ほどの受講者において毎回7~8名は居眠りが存在しました。なお、そのうち半分ほどは熟睡状態でした。それでも、期末試験などの成績は講師である筆者の期待値をほぼクリアしていました。期待値をどの程度に設定するかによるわけですが、学生の授業中の居眠りは全体的に見て致命的な悪影響を与えていないと判断することができました。今回も、まずはこの居眠りの続きからです。


居眠りは出ていけ
本稿のトップで紹介した不快な印象をもった講師の怒声は、40年ほど前のことでした。当時は同僚たちと「自分の講演のまずさを露呈した時代錯誤」、「牢名主のような恐怖政治の雰囲気」などとの感想を共有しました。肝心の「安全衛生管理」の主題とはかけ離れたことに我われの関心が集中しました。とはいえ安全衛生管理は工場技術者の主要な課題のひとつです。「こんな人物(講師)に弱みを見せたくない」との思いが技術者間で共有され始めたことは事実でした。こういうことで、主要課題である安全衛生管理についての関心が飛躍的に高まったことは事実でした。いわば反面教師の役割を果たしたということです。

この原稿を書いている現在では、当時を冷静に振り返ることができます。「牢名主」は明らかに筆者の誤解であり言い過ぎでした。安全衛生管理についての正しい伝道者とでも言うべきかと思っているところです。しかし、コミュニケーションが不適切でありまずかったことは明らかでした。現在ならパワハラで問題になるのではないかと思われます。筆者の結論を言えば、講師としては聴衆の居眠りをきつくとがめることはできないし、講師の役割は講演をいかに魅力的なものにするかがカギになる。これに尽きると考えています。次の例は、本連載の前回でも述べた筆者の記憶に今も残っている素晴らしい経営トップからのアドバイスです。

副社長の意気込み
開発部門に在籍していたとき、担当する副社長の交代がありました。新規着任の副社長はそもそも人事部出身の方でしたが、役員に昇格してから企画室、その後は海外営業など複数の部門を担当されました。開発部門担当になったとき、部門の全員と会話したいとの希望があったそうですが、全員は無理なので管理職だけに絞っての対話が実現することになりました。それでも1回あたり2時間、管理職の参加者数を20名としても副社長の都合も考慮すると、全体の終了までにほぼ1年になるとのことでした。我われのほうは1回限りで2時間だけですが、副社長のほうはそれでは済まないわけです。1年かけても全管理職との対話会をやるという意気込みが感じられました。

君たちに責任は無い その真意
これは本連載の前回で書いたように筆者がかねて気になっていた「責任」について副社長に聞いてみました。そのいきさつです。まずは前置きで「・・時々、責任を感じて自殺する人がいるが、それはハタ迷惑なだけだからやめてくれ!」、これには全員爆笑して「そんな人はいません」と一斉に反論が上がりました。次に「そもそも君たちに責任は無い」、「なぜなら責任をとれないから」と続きました。リコールを起こせば莫大な補償が発生する。それは会社でしか償うことができないほど巨額になる。個人が負うべきものではないことは明らか、などの明快な説明が続きました。

契約の社会と信頼の社会
つまり企業の責任は職位階層による連鎖で構成されています。特定の個人が責任をとる・とらないという、いわゆる責任問題に的確な解釈は無いということかなと筆者は理解しました。これはあいまいさを許容するわが国独自の文化を反映しているようです。同時に、企業トップとしては『責任感のある仕事をしてほしい』、これが率直な要請であったと思われます。

これも「責任感とは何か」と言い出したら、なかなかにややこしいことになります。しかしわが国の位置づけを欧米のような「契約の社会」ではなく、「信頼の社会」とすればかなり理解しやすくなります。責任感なるものは契約には不向きであり、契約の社会ではないわが国だからこそ円滑に受け入れられるのでしょう。

しかしながら、どのような社会でも受け入れられるものが欠かせません。相異なるこのような二つの社会に共通して通用するものとして、「職業人としての規律」を取り上げてみます。これは(程度の差はあっても)どのような社会にも必ず存在します。存在するものは明文化することができます(どのくらい詳細にやるかは別の課題になります)。契約ではなく信頼を前提として、それを規律という概念で見える化をはかる。このようなわが国ならではのやり方が、二つの異なる社会に共通するアプローチとして浮上してきます。

  (次回に続きます)