連載の前回は筆者の出身地である鹿児島について述べました。とくに鹿児島市はナポリと姉妹都市の関係にあり、ナポリは鹿児島市の街路名称にもあるなど姉妹都市の関係はしっかりと定着しています。また、鹿児島市は活火山である桜島という観光資源に恵まれていることにも触れました。高層ホテルからは桜島の雄大な景観が楽しめますが、当然のことながらこのような眺望の有無は宿泊価格に反映されます。つまり、雄大な眺望のためには相応の対価が必要になります。これは、資本主義の社会では当たり前のことだと述べました。つまり、有形無形にかかわらず必ず価値にはそれなりの価格がついてきます。このことが我われの社会では自然なことであり、さまざまな新商品や新サービスあるいはイノベーションの源泉になっています。今回はこの続きとそれが社会の進歩や発展につながっていくことを述べます。
鹿児島の偉人と言えば
明治維新の立役者は主に薩摩と長州から輩出していると言われます。薩摩で圧倒的に有名な人物は西郷隆盛です。筆者の実家には掛け軸のひとつに西郷の書いたものがありました。ちなみに掛け軸は季節やイベントなどによってそれぞれに異なるものをかけ替えていました。例えばお正月には鶴と亀のデザインなど決まったものがありました。西郷の書いたもの(もちろん市販されているレプリカ)がありました。これは年間を通して季節性が無いので、割合に長い時間かけてありました。その出だしの文章だけはよく覚えているものがあります。鹿児島弁を現代語にすると次のようなものでした。「・・私の言うことを聞いておかないと、後で後悔することになるよ」、これは西郷の征韓論が国策とならず、野に下ったときの心境を表現したものでした。西郷の盟友だった大久保利通は征韓論に同意することなく、内政を重視しました。これはその後の歴史を見るとまさに大正解だったわけです。ところが、筆者の実家付近では大久保の掛け軸は無かったようです。大久保の歴史認識の的確さと民衆の人気はまるで異なるようでした。
若き薩摩の群像
前項では、昭和世代である筆者の感慨を述べました。平成、令和と時代は変わりましたが、昭和においても地元鹿児島での歴史感覚は大いに変わったようです。その象徴のひとつが「若き薩摩の群像」です。これは鹿児島中央駅前にあるモニュメントです。高さ約12メートルで鹿児島の玄関口のシンボルとなっているのだそうです。鹿児島在住の彫刻家である中村晋也氏によって、昭和57年(1982)に制作されました。薩摩藩が派遣した英国留学生達を題材にしたものです。派遣は慶応元年(1865年)とのこと、これは明らかに徳川幕府の海外渡航厳禁の政策に反する行為でしたから、藩命として密かに送り出したことになります。これのきっかけになったのが文久3年(1863年)の薩英戦争でした。この戦争で英国の圧倒的な実力を見せつけられました。そのわずか2年後に英国への留学生派遣が実現したのですから、薩摩藩の迅速な変身ぶりに驚きます。
薩英戦争という実物教育
米国ペリー艦隊による嘉永6年(1853年)の黒船来航もそうでしたが、異なる文明を理解するために戦争ほど理解を早めるものは無かったことがよくわかります。黒船来航は戦争ではありませんでしたが、やってきたのは軍艦でした。ペリーは「平和的なやり方(交渉)では効果は無い」と判断して軍艦で来航したわけです。徳川幕府についての事前の調査研究が行き届いていました。
それまでの薩摩藩には徳川幕府など何するものという気概やうぬぼれはあったと思いますが、それが薩英戦争によって彼我の大きな差異を見せつけられました。ここで直ちに相手から学ぼうという姿勢に大転換しました。ここはけっこう重要なポイントですね。彼我の差異を見せつけられても、何も感じない、あるいは認識してもそれ以上の行動はしないなどの状況は現代のわが国でしばしば見られることです。つまり、薩摩藩のその後の明治維新などでの活躍はここにその原点があると考えられます。きっかけはあっても、その後の行動がどうなのか。このへんの事情は時代が変わっても、あるいは組織であるか個人であるかを問わず、ものごとの成否を決める重要な要因と思われます。
必死で学ぶ謙虚な姿勢があったわが国
筆者にとって司馬遼太郎の名著「坂の上の雲」は愛読書のひとつです。これについて公共テレビ放送で3年間にわたってドラマ番組が放映されました。海外ロケなどもある大作でした。この企画を知って出版社から「この番組がヒットすれば関連著書もヒットするはず」とのことで執筆依頼がありました。最終的に視点を変えることで2冊の著書(2冊目は共著)を出版することができました。「坂の上の雲」は日清戦争や日露戦争の時代を描いた名作です。明治維新後のわが国はまさに西欧列強の植民地にならないよう必死の努力で坂を上り続けた時代でした。
当時は西欧列強(英・米・独・仏・露)の諸国が、とくに英国が大英帝国として世界に大きな影響力をもつ時代でした。そのような中にあって明治維新のあと日清戦争(1894~1895年)と日露戦争(1904~1905年)というかつて経験したことのない対外戦争を二度も経験することになりました。当時の清国や帝政ロシア、いずれも世界的な大国でしたが日本は必死の努力で勝ってしまいます。これは世界の予想を全く裏切る番狂わせの結果でした。
学ぶ姿勢が消えるとき
二冊の著書を執筆しての感想は、勝利は必ずしもその後に活かされないということでした。本稿で述べている、若き薩摩の群像や薩英戦争などでは「相手から学ぶ姿勢」が基本にありました。日清戦争や日露戦争は「勝利」という結果になりましたが、これはわが国にとって「相手から学ぶ姿勢」を無くすことになった、これが筆者として強く感じたことでした。二つの戦争はいずれも薄氷を踏む思いでやむにやまれず開戦しましたが、開戦前にはおごりやうぬぼれなどは皆無でした。そして、開戦したからには負けない工夫や味方になる国々への折衝など周到な準備や根回しがありました。逆に、大国である清国や帝政ロシアなどには「ちっぽけな日本」「東洋の弱小国」「こざかしいサル」といった偏見が前提になっていました。これらの二つの国には「相手に学ぶ姿勢」などはありえない状況でした。
わが国はこれら二つの戦争で望外の勝利を得ました。しかし、これらの勝利はわが国から「学ぶ姿勢」を消し去ることになり、その後の戦争での悲惨な敗戦に結びつく大きな要因になりました。戦争に限らず、ビジネスにおいても学ぶ姿勢が消えることは衰退の道につながっているように思われます。