プロジェクトでカイゼン [Project de Kaizen] 第176回

プロジェクトチームの休憩室(24)

連載の前回は引き続き観光公害(オーバーツーリズム)について述べました。とくに富士山の登山有料化と人数規制や時間規制などが始まったことを取り上げました。遅きに失した感はありますが、わが国の観光分野でのひとつの転換点になると述べました。有名な神社や寺院、公園などは従来から入場に際して料金負担は当たり前のことでした。筆者は霊峰富士が入山料無料とはいかにもちぐはぐに感じていました。有料化で観光公害の緩和や観光資源の保全が充実することが期待できます。とはいえ、何でも有料化なのかという批判は無くならないでしょうが、時間の問題で無視できるレベルに落ち着くことでしょう。

我われの暮らす資本主義社会ではおカネという尺度はきわめてわかりやすい、判断しやすいという特徴があります。富士山の入山料がひとり¥2,000だったら行ってもよいが、ひとり¥20,000だったらやめておこうといった判断ができます。また管理者(自治体)としても入山料を値上げや値下げすることもできますし、入山料収入で現有資源の保全や再開発、そしてあらたな観光資源の開発にも着手できることになります。今回もこの続きです。


鹿児島市は東洋のナポリ
筆者は鹿児島県の出身です。鹿児島市には高校生のとき3年間暮らしました。鹿児島市は1960年にナポリ市と姉妹都市になっており、ナポリ市は世界的な景勝地との評判が鹿児島市で定着していたようです。しかし、ナポリ市がいかに素晴らしい景勝地だとしてもそこの評判を借りる必要は全くありません。東洋のナポリとはつまらない言い方だな~といつも思っていました。

驚くことに、鹿児島市は姉妹都市としてナポリ市のほかにパース市(オーストラリア)やマイアミ市(米国)などとも姉妹都市の関係と聞きました。そんなにあちこちに安売りしてよいのかなと思いました。あるいは、姉妹都市として最も多くの相手先をもつ都市としてギネスブックにでも登録したいのかなとも思います。姉妹都市はどうであれ、活火山である桜島を望む景色は素晴らしいというひと言に尽きます。先月久しぶりに訪問した筆者の感想です。

価格が価値を決める
モノやサービスにはそれぞれに価値があり、それに対して相応の価格がつくことになります。価値そのものは評価する人によって様ざまに異なる着眼点があります。ところが価格については誰であれ価格(金額)という同一の着眼点しかありません。

観光ビジネスの柱として景観を提供するサービスがあります。例えば鹿児島市のホテルで雄大な桜島が望める部屋は、そうでない部屋よりも相応に高めの料金になります。料金(価格)は誰に対してもわかりやすい指標です。景観に価値を認めない(そういうものはどうでもよい)場合は割安な料金が選べます。消費者であれ利用者であれ、多様な選択肢があることはつねに良いことです。選択肢については様ざまな観点があります。次は筆者の体験です。

選択肢が限られると苦しい
先輩から自ら執筆した本を出版したいとの依頼があり、筆者の知り合いである某出版社編集長に紹介するため神田神保町のオフィスに同行したことがありました。帰りがけにはちょうどお昼時になりました。先輩が近くに良いお店があると老舗のうなぎ屋で昼食をおごってもらうことになりました。お店の方から、松・竹・梅のどれにしますかと聞かれました。何はともあれ最小サイズのものにしました。先輩から遠慮しなくてもいいよと言われましたが、もともとウナギを好まない筆者は朝食が遅めだったのでという言い訳をしました。ウナ重のほかにカツ重などの他の選択肢が全く無い状況に困りました。次に述べるケースは一本の道があるだけ、選択肢という発想が一見して無さそうに見える状況です。

新しい取り組みはまず評価されない
リニア新幹線の工事でひとつの変化がありました。トンネル掘削工事反対に執着していた地元の県知事が突然に退任したからです。退任の理由はよくわかりませんでしたが、新知事の就任で工事が進展することになるかもしれません。新しいこと(初の取り組み)には必ず反対がついて回り、初めから好意的な評価をされることはまずありません。とはいえ、トンネル掘削工事に頑強に反対するとは異常なことでした。新知事がそうならないことを期待します。東海道新幹線が開通したのは1964年の東京オリンピック直前のことでした。これを強力に推進したのは当時の国鉄総裁十河信二氏、そして技師長の島秀雄氏であり彼らは新幹線の父と呼ばれているそうです。

しかしながら、新幹線開通の前年の1963年に建設予算超過の責任を背負うかたちで十河総裁は退任となりました。新幹線の明るい将来は見えなくても、現在の予算超過という現実は明白です。現実派は待っていましたとばかりに総裁をクビにしたのでしょう。さらなる陰湿な仕打ちもありました。翌年1964年10月1日の新幹線出発式にはこのお二人は国鉄から招待されなかったそうです。新幹線の父であるお二人とも出発式は自宅のテレビで見守ったとのことです。新しい取り組みはまず評価されないという傾向はわかります。しかし、計画が着々と実行段階に移行しているときに国鉄の経営トップがその価値を理解できなかったはずはありません。それにも関わらず新幹線の生みの親というべき二人を晴れの舞台に招待しなかったのです。当時の国鉄による信じられないほどに意地悪でかつ冷たい仕打ちが記録として残されています。

地球規模のイノベーションとなったわが国の新幹線
わが国の新幹線は開業から60年ほどが経過しました。その大成功は交通分野にとどまらない地球規模のイノベーションとして、今や世界的に普及し欧米やアジアの各国で新線も続々と建設されるようになりました。当時のわが国の開発者は現在のように東海道に限らず全国に新幹線網が展開されることは想像できなかったようです。というのは開発者としては東海道線以外への展開は良くないとのコメントが残されています。これは投資対効果が良くない、つまり経済性の面で大きな障害があるとの判断だったのでしょう。当時としてはもっともな見解だったと思われます。

現在のところ、東海道以外の新幹線も応分の営業運行を実現しています。このことは、60年前の当時よりも日本経済自体の底上げができ、かつ大きくレベルアップしたということではないでしょうか。東海道新幹線60年の歴史はわが国社会の成長の歴史と相似形なのでしょう。そして、独自の技術開発によるリニア新幹線の登場はわが国の社会進化の代表的な転換点として位置づけられるのではないでしょうか。